記事 渦の外へ踏み出す ーー本物であることへの勇気ーー

渦の外へ踏み出す ーー本物であることへの勇気ーー

ランドマークワールドワイド
ブレークスルーテクノロジーコースリーダー
ジョー・ディマジオ

ある日の午後、いつにも増して退屈な文法の授業の最中に、先生が教科書を傍らに置き、地元のラジオ番組「トップ40」の中で、ベストの曲をノミネートしましょうと言い出しました。その年初めて、クラス全員の手が挙がりました。個人の好みについての質問なので、私は別に決まった答えはないと思っていました――少なくとも先生に指名されて、自分の一押しの曲を言うまでは。私が推した曲は、地元のヒットチャートの中で最高の曲だし、もしかしたら史上最高の曲かもしれなかったのに…。今でも思い出すのは、自分が挙げた曲名よりも、それを言った後のクラスの沈黙――シーンと凍りついたとしか言いようのない同意の欠落でした。

初めてその曲を聴いたとき、あんなに夢中になったのに。レコードを買って何度も繰り返し聴いたのに。この曲のどこをとっても満足していたのに。でも、誰もこの曲を良いと思っていないのなら、自分だってそんなに良いと思っていないのだろうと、考えました。その晩、部屋で一人になると、今日のことがあまりに恥ずかしく、聴くことはおろか、そのレコードの方を見ることすらできませんでした。後になって、ああ、だから自分は卑屈なほど人を喜ばせようとしてきたんだ、と思い当たりました。確かに、この出来事以来、誰かに意見を尋ねられたら、逆に質問をして答えを引き出し、話を合わせました。相手がクイズ番組とディープ・パープルが好きだと分かったら、私もそのように振る舞いました。矛盾した振る舞いを指摘されると、例えば、嫌いだと公言していたものを見たり聞いたりしているところを見つかったとき、これは調査だよ、とか、この趣味の悪さが逆に楽しめるじゃない?などと言い張りました。これで通用してきました。そうしていれば、大目に見てもらえるし、面白いやつだとすら思ってもらえました。まさに、「人の思惑に合わせて生きているうちに、自分が嬉しいことと、嬉しがらなくてはならないことの区別ができなくなってしまった」のです。(注釈1)

「汝自身に忠実であれ」という格言は誰でも聞いたことがあるし、それに沿って生きていれば、物事は大抵うまくいくということも皆よく知っています。しかし、人からの賞賛を得ようとする吸引力や周囲に溶け込みたいという欲求は、強力です。私たちは自分がまがいものになっていることに十分気づいていて、自分の言動が本意からでないと分かっているときでさえ、本心からやっているかのように振る舞います。それは、何らかの賞賛を失うリスクを恐れているからです。私たちは、自身に課した要求水準が実現不可能なものであるのを知っているときですら、そこに到達しようと頑張ります――欠点だと勝手に思い込んだことを隠し、さもそんなものはないというフリをしながら。そのとき私たちは、気づかぬままに「まがいもの」の上塗りをしているのです。

自らを偽って、何らかのフリを続けなければならないとき、私たちには気の安まる暇がありません。しかし、朝起きて「やれやれ、今日もまがいもので行動するんだろうな。自分の人生は、いい格好しいと、悪く見られるのを避ける人生なんだな」と自覚して口にするわけではないでしょう。まがいものというあり方は、言ってみればいつも自動的なのです。もし自分にとって真実であることよりも、いい格好しいや、悪く見られるのを避けることを優先すると、その度毎に、まがいものがはびこり、自分という人間が小さくなっていきます。

私たちは、自分自身がまがいものであると考えることを、あまり好みません。しかし、私たちが今日暮らしている社会では、「うまくやる」「合わせる」「良く見られる」ことが良しとされます。この方向に向けられた一種の文化的束縛の中で、私たちの思考や行動の大半が形作られていきます。その強制力、あたかも重力のように作用する力は、存在論的な現象であって、けっして心理学的なものではありません。これは、「人間であることの既にいつもの状態」(このとおりの意味です)なのです。この状態は至る所に存在し、私たちのものの見方、状況への反応の仕方、何に関心を持つか、私たちにとって何が大切かなど、まさにあらゆるものに影響します。自分は真意から誠実に行動していると思っているかもしれません。しかし、実際に起きているのは、私たち人間の反応は、本質的にこの「既にいつもの状態」の産物に過ぎない、ということです。そして本物であろうとすることは、このとてつもない重力の働きに逆らう試みなのです。

一度でも妥協すると、それがどんな些細なことに対してであろうと、それ以降は妥協することが一層容易くなるのです。妥協することを、何の問題もない普通の振る舞いのように感じ始めます。それによって、時間の経過と共に、自己という感覚が徐々に蝕まれていきます。白ペンキの入った缶に赤ペンキを一滴たらしてかき混ぜるとどうなるでしょう。わずかに赤みがかるだけかもしれないし、または、ほとんど気づかないかも知れません。しかしどう言おうが、もう元の白ペンキではありません。同じように、一人の人間としての自分の完全無欠さが、どこか損なわれると、初めは気づかなくとも、自分がどんな人間であるかがぼやけて感じられなくなり、自分自身に戻ることが難しくなります。こうなると、自分に還るための出発地点は失われてしまい、何をやっても空回りするばかりです。

本物の自分であるためには、今現在の自分のあり方の何らかの側面を失う覚悟が必要です。つまり、数々のフリを手放すこと、物事が新しい仕方で現れてくるのを許すこと、進行中のまがいものがあればそれを承認すること、などです。真に自分自身でいられるという可能性は、自分がどれだけ本物であるかに比例します。言い変えると、この可能性は、どれだけまがいもののあり方を自分のこととして引き受けるかに左右されるのです。自分のこととして認識しないでいると、どうしたってまがいものに付きまとわれて生きていくしかなくなります。フリの生き方、自分の何かの側面がバレるのを恐れながら生きていくことが、いなかる真の自由をも遠ざけます。真の自由ではなく、偽物の自由の中で生きていくことになるのです。計り知れない代償ではありませんか。

サルトルはこう言っています。「自由と向き合うことは、恐怖であり、かつ不都合ですらあり得る――なぜならば、それは我々を不安に陥れ、ある種の苦悩を感じさせるからだ」と。つまり私たちは、自らに対して「自由ではない」というフリをして、まがい物で生きていくよう、常に誘われているのです。このフリを維持するために、私たちは自分を納得させようとします。「人の行動は決定されているのだ。その人の性格や状況や本質または何かによって」という具合に。私たちが決して認めたくないのは、自分の行動が、自由で束縛の無い選択のみによって決められているということです。(注釈2)

本物であるためには、つまり、「既にいつもの状況」という大きな渦の流れから抜け出すには勇気が必要です。ユーモア作家ジョシュ・ビリングスはこう言っています。「これは、最も困難であるのみならず、最高に厄介な仕事だ」 私たちが本物であるとき、既にいつもの状況はその勢いを削がれ、もはや、あなたがどんな人間であるかを形成する決定力を持たなくなります。そして、「私は何者であるのか?」という質問が入っている器そのものも、どこか外で自分探しをしてもがくという器から、自ら創作すべきものという器にシフトしています。この方が余程難しいのです。なぜなら、参考にすべき時代精神もなければ、従うべきモデルもなく、成功への経路も知られていないからです。まさに白いカンバスです。詰まるところ勇気のいる仕事、可能性を創作する仕事なのです。前進しながら創り出していくべきものです。そしてこのシフトこそ私たちに、人間であることの豊かな可能性を与えてくれるのです。

(注釈1)
デビッド・セダリス編『ヘラクレス像の前で遊ぶ子供たち(Children Playing Before a Statue of Hercules)』の序文、3−4頁

2. Adapted from Raymond Martin and John Barresi, The Rise and Fall of Soul and Self, pp. 237-238.
(注釈2)
レイモンド・マーティン、ジョン・バレシ共著 「魂と自己の興亡」(The Rise and Fall of Soul and Self)」237−238頁

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