自動的な「自分」を超えて、本物の自分らしさを創作する

ランドマークワールドワイド
ブレークスルーテクノロジーコースリーダー

医学博士 ジョー・ディマジオ

「先生が、クラス全員に一番好きな歌を尋ねた。僕の番になって、ある歌のタイトルを挙げると、教室はしーんとして微妙な雰囲気になった。僕はその歌が大好きだったけど、誰もその歌を好きじゃないんだったら、僕ももう好きじゃない。それからというもの、誰かに意見を尋ねられたら、逆に質問して、相手の答えを引き出してから話を合わせるようにしている」*

* デビッド・セダリス著『Children Playing Before a Statue of Hercules』(2005年、Simon & Schuster社から出版)より引用。

 

同意を得たい、良く見られたいという引力は強烈で、日常の隅々にまで根を張り巡らせている。「良く見られる」ことには、確かにそれなりの妥当性や重要性がある。行動のきっかけを与えてくれたり、人生の新しい扉が開いたりするからだ。しかし、良く見られること自体が目標になってしまうと、自分が何者であるかという感覚が徐々に失われる。そして、人生で何かに熟達した、という体験が阻まれる。

どんなフリであれ、それをやり続けていると、自分らしさが失われてしまうし、気の休まる暇がない。しかもそれは、朝起きて「よし、今日はまがいものになろう」と言って意図的にやっているわけでもない。まがいものの在り方や行動の仕方は、人間であることの「既に・いつもの」状態だ。私たちが発明したわけでも作ったわけでもなく、ただそこに在るのだ。そして、本物であろうとすることは、その「まがいもの」の引力に逆らうことである。

 

自分らしさとは、自己が自己に立場を取っていること。つまり実存的な行為である。自分らしさには持続性がなく、時間の中には存在することではないので、常に創作しなければならない。そしてそれには勇気が要る。私たちが自分自身に忠実であるとき、「既に・いつもの」状態はその力を剥ぎ取られる。すると「生きる」ということの技に熟達することが可能になるのだ。