自由としての「何もなし」との出会いーランドマークワールドワイド

私たちが体験しうる「何もなし」は、あらゆる可能性が立ち現れる場だ。人生というゲームを一変させる。

自由としての「何もなし」との出会い―ランドマークワールドワイド

ランドマークワールドワイド
ブレークスルーテクノロジーコースリーダー

米国医師 ジョー・ディマジオ

 

もし「無」がなかったら、物事は一体どこで起き得るだろうか。あらゆる物事は静止するだろう。物体は移動することができない。静寂がなければ音楽は存在できず、休符がなければリズムはない。単語や文章の間の余白がなければ意味を表現することは不可能だ。そして、新しい考えや課題が立ち現れる空き地もない。

 

私たちは、科学に「無」を見出す。芸術の中にも、ヘーゲル、ハイデガー、サルトルの哲学にも。サミュエル・ベケットの戯曲にも、エミリー・ディキンソン、ロバート・フロスト、ライナー・マリア・リルケの詩にも何もなしを見出す。何もなしがなければ、計算も、作曲も、創作することもできない。

 

「無」または「何もなし」という考えは、時に難しい。なぜなら私たちは、体験や物事や概念には意味がある、と知覚するよう配線されているからだ。「何もなし」という概念は、私たちの文化の中で受容されている常識的なものの見方とは真っ向から反するように見えるかもしれない。

私たちの住む世界は、ほとんどすべての物事に意味が与えられているが、誰も、その意味を与えた張本人が自分であるとは気づいていない。私たちはそれらの意味の中で生き、その意味を元々あるものと位置づける。そして、それらの意味が、世界と私たちの関係を定義し、私たちが誰であるかという感覚を私たちに与える。この構造を脱して、自由としての「何もなし」に出会うためには、私たちはこの考えの異質さを突き抜け、越えていかなくてはならない。

 

私たち人間が体験しうる「何もなし」は、自己否定としての「何もなし」ではない。むしろ、私たちの自己に通じる扉だ。人間として私たちに入手可能なあらゆる可能性が立ち現れる場だ。「何もなし」は捉えどころがない。「何もなし」としての「何もなし」は、すぐに消えてしまう。「何もなし」を掴んでも、何度も見失うだろう。だが、掴んだのが一度きりだとしても、それは、決定的な体験だ。人生というゲームを一変させる。「何もなし」にアクセスできれば、創作すること、デザインすることが可能となり、既にあるものからの創作では得られないような自由をもって生きていくことができる。

 

* ジョアン・コナー『無を知るために仏教徒になる必要はない』より引用

 

 

 

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