記事 ホテル・カトリーナ 第4章 絶望と希望–災害生存者の実情

ダラスのホテルオーナーと仲間たちが起こした奇跡
——まごつく政府救援に先んじた民間援助                                                                              

ダラスのホテルオーナーと仲間たちが起こした奇跡
——まごつく政府救援に先んじた民間援助

《4章に登場する人々》
・デイブ・ピーターソン
ホテル「クオリティイン」のオーナー。ランドマークの卒業生。
ハリケーンカトリーナの被災者を無償でサポート。
・アン・ピーターソン
デイブの妻。ランドマークの卒業生。デイブと共に、被災者救援に奔走する。
・ロバート・バートン
クオリティインの料理長。
・ダリル・スタフォード
クオリティインの接客部門マネジャー。
・ケン・チャイケン
不動産専門の弁護士。
・アダム・ニース
クオリティイン内 「カトリーナ百貨店」担当者。
・カイリーン・ダビッドソン
クオリティインの食料調整係として協力した地元の住民。
・ケンリック・ネビル一家
隣のルイジアナ州からダラスまで避難。クオリティインに滞在。

ハリケーンの襲来から数週間が過ぎた。 クオリティインでは、度々失望や挫折を味わいながらも、奇跡のような出来事によって救われるという毎日が続いていた。カトリーナ百貨店を取り仕切るアダム・ニースによれば、「ある日、歯ブラシが足りないと思ったら、次の日には下着が足りないといった具合」だったそうだ。しかし、必要なものはなんとか補充されていった。補充の様子を、アンはこう語る。「何がどうなって、あんなふうにうまくいったのか分かりませんが、うまくいくのは分かっていました。『次に電話してくる3人に、トイレットペーパーが必要だと伝えて』と言うと、3時間後には台車2台分のトイレットペーパーが届けられました」 アダムの概算では、少なくとも5回は全在庫品が入れ替わったそうだ。

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「ショッピング」をして笑顔を見せる、トーニャ・ミラーの娘たち

ホテル内で、一番苦労したのは厨房のスタッフたちだろう。レストランでは、7か月前のバレンタインデーから朝昼晩の食事の提供を始めたばかりで、利用客は朝100人、昼7人、夜12人程度だった。それがいまや、700人に1日3食を提供することになったのだ。さらに、こうした事態のまっただ中で、頼りにしていた料理人が過労で辞めてしまった。残されたのは、元軍人のダリル・スタフォードとロバート・バートンのみ。この2人で、調理に関わること全てに対応しなくてはならなかった。「私たちは腕まくりをして、やるべきことを黙々とやりました」とダリルは言う。「ああいうとき、自分のことなんて考えませんね。考えるのは、ただ目の前にある仕事のことだけです」

助けは思わぬところからやってきた。20歳のカイリーン・ダビッドソンだ。カイリーンはホテルに駆けつけると、その週のうちに、以前働いていた地元コリービル市(訳注1)のレストラン「サビアノ」に掛け合って、寄付の約束を取り付けた。 カイリーンはその後、食料調整係として、「ホールフーズ・マーケット」や、「タコブエノ」、「チックフィレイ」、「イーチーズ」といったスーパーマーケットやレストランチェーンから寄せられた食料品を管理するようになった。「彼女の仕事ぶりを見て、正直、あんなに若いとは思ってもみなかった」とロバートは言う。レストランのスタッフは、せめて食事のときくらい、被災した人たちがリラックスして楽しめるようにと最善を尽くした。「なるべく皆さんの故郷の味を出そうと、ガンボやジャンバラヤなどを用意しました。レッドビーンズ&ライスは毎日作りました」とダリル。「1日でも出さないと、『レッドビーンズ&ライスはないの?』という表情を浮かべてましたから」

(訳注1)ダラスから北西に35km離れたテキサス州の市。

「そうした食事のおかげで、被災者の心は安らぎ、食欲も戻ってきた」とロバートは付け加える。ほどなくして、近隣のホテルに避難している全被災者が、このホテルで食事をしているのかと思うほどになった。ロバートは言う。「有志の人たちが食材を持ってきてくれたから、さほど問題ではありませんでした。この頃にはもう、どんなに大勢の人が来ても賄えるくらいに、大量の食材があったのです」

食事の場は、被災者コミュニティへのお知らせの場でもあった。デイブはスタッフが気になっていることを被災者に伝え、そして被災者からの提案も求めた。また、コミュニティ会議は、妙な噂が広がるのを抑える働きも果たした。デイブ談。「放っておくと、『ミシガンに仕事があるらしいぞ』といった噂が広まり、翌朝には全員が私のところに押し掛けてきて『ミシガンには、どうやって行ったらいいんだ?』と尋ねる始末です」

天から仕事が舞い降りてくるようなこともあった。アービング市(訳注2)でトラック運送会社のマネジャーをしていたエリス・クリーバーが、ある日の食事どきにホテルへやってきた。そして、誰かトラックの運転ができる人がいないかとデイブに尋ねた。デイブはエリスを食堂へ手招きし、ちょうど皆ここにいるから直接聞いてみてくれ、と言った。エリスと彼の息子はハリケーンの被災者たちと何時間も話し込み、翌日には、被災者のうちの二人がエリスの会社、ディペンダブル・オート・シッパーズで働き始めた。

(訳注2) ダラスから北西に約15km離れたテキサス州内の市。

だが、暇を持て余す被災者のほうが圧倒的に多く、たくさんの人がプールサイドや木陰で、夜遅くまで話し込んでいた。デイブは振り返る。「そんなわけで、芝生の大部分を張り替えなくてはなりませんでした。皆さんは、夜、ホテルの庭で、ただ座っておしゃべりをして過ごしていました。ニューオーリンズから来た者同士が、ここで新たに「ご近所」づきあいを始めたのです」

被災者の中には、ケン・チャイケンが苦労して探した賃貸物件を拒み、なかなかホテルを引き払おうとしない人もいた。「無礼で厄介な人たちもいましたね」とケン。6件連続で断った家族までいた。

被災者がホテルの部屋に四六時中いる。これが清掃スタッフの悩みの種だった。清掃部門の主任であるキャシー・ミークスの言。「出てください、なんて言えないですよ。みんな他に行く場所がないんですもの」 キャシーはできるだけ通常のスケジュールに沿って清掃しようとしたが、部屋に何人も人がいるため中に入るだけで一苦労、ということがあった。「あの状況をもどかしく思いました。少なくとも、週2回は部屋を清掃したかったのです。2、3日清掃をしないだけで部屋がどうなってしまうか分かっていたのに、あのときの皆さんは1ヶ月以上も滞在していたのですから」 ようやく部屋から人が出ると、ほとんどの部屋は徹底的な大掃除が必要だった。

清掃スタッフは、ホテル前に設置されたゴミ箱を1日に4度も空にしなくてはならなかった。デイブは、「ぞっとするほど」のゴミの山だった、と表現した。多くの被災者たちはホテルの清掃スタッフを手伝ったが、全員が協力的だとは限らなかった。「後で来てくれと言われ、1日に6度も7度も出直さなくてはなりませんでした」とキャシー。「部屋にいる人たちは、特に何をするでもなく、ただお酒を飲んだり煙草を吸ったりしていました」 膨大な仕事量であったにも拘らず、20人いた清掃スタッフのうち、辞めていったのはたった2人だけだった。「ここで、このスタッフたちを支えられたことを本当に嬉しく思います。私は心からスタッフを愛していますから」とキャシーは言う。

ハリケーン上陸後、2週目に入る頃には、子供たちが皆学校に編入したため、ホテル内の混雑はやや解消した。デイブは言う。「朝、ホテルの前に、何台ものスクールバスが停まるなんて思ってもみませんでした」 ファースト・バプティスト教会の計らいで、どの子にも文房具が詰め込まれたリュックが配られた。

しかし、ハリケーン・カトリーナが落とした暗い影は常に人々につきまとっていた。被災者の多くは家族と離ればなれのまま。中には助けを求めるのをためらう人もいた。アンが親しくなったトーニャ・ミラーという女性もその一人だ。「ある日、トーニャが息子のデヴォンテ君の話を始めたんです。『あなたに息子がいるなんて知らなかったわ!』と言うと、『実は、今どこにいるのか分からないの』ですって。びっくりした私は、『トーニャ、いい加減にして!どこにいるか分からないって、どういうこと?』って」  トーニャはニューオーリンズで、夫と息子からはぐれてしまったのだ。赤十字のデータベースから被災者の情報を調べたアンは、トーニャの夫がテキサス州ヒューストン市にいることを突き止めた。そして、アンの仲間であるランドマークの卒業生がヒューストンのアストロドーム避難所に出向き、4時間かけてトーニャの夫を捜し出し、4歳の息子の居場所も分かった。トーニャはその後すぐ、ダラス市内で息子との再会を果たした。

もし被災者たちの協力が無かったら、ホテルでの支援活動は決して続けられなかっただろう。食後の片付け、支援物資の仕分け、さらにホテルの庭の手入れも、被災者たちが行った。カトリーナ百貨店で、山のような支援物資を整理するアル・ウォンブルの献身ぶりに感銘を受けた人がいる。ボランティアのマーク・ヘフレフィンガーだ。「彼は本当に必死になって働いていました」とマーク。アルが、あるときふと、ニューオーリンズ出身だと漏らした。「『ハリケーン・カトリーナの被害に遭いましたか?』と尋ねると、アルは『家は水浸しさ』と答えました」 マークはいたく感じ入った。「アルは一言も文句を言わず、働き続けました。そうやって乗り越えようとしていたのです。『倒れて死ぬか、立ち上がって生きるかだ』と言っていました」

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ナンシー・ウェスト(左)と『被災者の美しさをサポートする会』のメンバーによるヘアーカットを始め、ホテルではさまざまな奉仕活動が行われた。

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被災者のなかには、自らボランティアチームに加わり支援活動をサポートした人もいた。
(後方、左から)被災者のラリー・リーベルと、ボランティアのケルビン・クレイマン(あごヒゲの男性)
(中央、左から)被災者のセシール・リーベル、カトリスカ・ネビル、ケンリック・ネビルと、ボランティアのアダム・ニース(シャツにサングラスの男性)。

9月10日に、ホテルで結婚式が予定されていた。これは、被災者の熱烈な後押しがなければ実現しなかっただろう。ケンリック・ネビル一家はホテルの従業員と一緒に、無我夢中で庭を会場にするための準備を進めた。一方、カイリーンと他のボランティアは、駐車場でバーベキューの準備をした。結婚式の間、被災者たちが過ごすための場所だ。駐車場には支援物資であった大型テントが張られ、バーベキューグリルやかき氷マシンが用意され、移動式の人形劇まであった。新郎新婦や招待客はプールサイドでお祝いをして、ハリケーンの被災者は駐車場でバーベキューをしながらのんびりと過ごした。

例のごとく、このイベントにも小さな奇跡が舞い込んだ。カイリーンは振り返る。「ホットドッグだけじゃなく、ハンバーガーを食べてもらわなきゃ、と考えていました。だって、バーベキューですからね。でも、ハンバーグを挟むパンのことをすっかり忘れていたのです」彼女が自分のミスに気づいたのは、一本の電話が鳴ったときだった。「電話の主は、ワタ・バーガーのスタッフでした。そして、『うちに300個のパンがあるんですが、そちらで使ってもらえますか?』と言うんですよ」 そして、これもまた例のごとく、やっかいなことも起きた。ダラス市内を巡回していた警察官が、許可なく建造物(大型テント)を建てたとして、デイブを警察署へ出頭させようとしたのだ。しかし50ドルで許可証を購入して、その場は丸く納まった。

 

 
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