可能性としての「私」に出会う
可能性としての「私」に出会う
ランドマークワールドワイド
ブレークスルーテクノロジーコースリーダー
ギタンジャリ・コッピカール
可能性とは、いくつもの選択肢や機会の中から選ぶこと、あるいはいつか起きるかもしれないこと、と多くの人は思っています。しかし可能は、私たちを、既存の選択肢や機会の外(そと)に立たせてくれるものなのです。可能性とは発明する力であり、その意味でほぼ動詞としての役割を持つもの、触媒のように状態の変化を促すものです。同時に、そこから来るところ、そこに向かうところ、住むところ、でもあります。プラトンの善や美の哲学も、ニュートンの宇宙の仕組みについての画期的な概念も、ピカソのキュビズムも、可能性によってもたらされました。可能性の発明は、これまで知っていた自分というものの制約に終わりを告げ、自分自身を、様々な文化や歴史あるいは何らかの性質の集積ではなく可能性として知る、ということの始まりです。
それは言葉という領域の中のことです。単語や描写や表象(つまり世界に対する反応)としての言語ではなく、言語そのものの領域です。それが発明の世界、可能性をもたらす世界を可能にします。言語の領域は、これまでとは全く異なる成果を生み、その世界を存在の中に持ち込んでくるのです。それを「言葉に一致する世界」と呼んでも良いでしょう。言語の領域は世界を生じさせ、その世界の中にある様々な物事へのアクセスを私たちにもたらします。物事の方向性をシフトするのはこの領域です。可能性の創作は、人間であることによって根本的に何が可能であるのかを知る方法なのです。
ブレークスルーテクノロジーコースリーダー
ギタンジャリ・コッピカール