私たちの物語――永遠に柔軟で発明に対して開かれたもの

私は幼い頃から、物語に、それもいくつもの物語に出演するのが夢でした。でも、私のところには、物語はひとつもやってきませんでした。『物語に出演するには応募しなくちゃいけないんだよ』と友人が教えてくれました。世事に通じたその友人の勧めに従って、私は物語製造工場を訪ねました。例によって面接があります。机の向こうのまだ若い男が言いました。『するとあなたは物語に参加するために必要なものを持っていると思っているわけですね?それはどんなことですか?』」

              マーガレット・アトウッド著「The Tent」より引用。

 

「あなたはどんな人ですか」と聞かれたら、私たちは大抵、自分の物語を語り始めるのでははないでしょうか。物語が鍵になっているわけです。つまり、物語ることが、人間が互いを理解する方法に、過去を記録する方法に、意味を作り出す方法に、そして人生に新しい現実を持ち込む方法になっているのです。確かに自分の物語は豊かで重層的でユニークかも知れません。しかし、自分は自分の名前でもなく、起きた出来事でも、起きたことに自分が割り当てた意味でも、精神状態でも、種々の感情の状態でもないのと同じように、自分は自分の物語でもありません。ストーリーの内容は「私」ではありません。にもかかわらず、多くの場合、そうと気づかぬうちに、物語の内容と、私が私だと思っている人(アイデンティティ)とが混同され、同一のものになっていきます。この混同は人間の本質の中に予め組み込まれている仕掛けのようなものです。そこが私たちの行き止まりとなり、人間存在の可能性という広大無辺な世界は、もはや私たちに触れられなくなります。

私たちは自分を、物語ののものと記述し言及することもできますーービジョンを前進させ、素晴らしいアイデアを現実化し、自分のコミットメントを推し進めるために。しかし私たちは、物語をいつでも書き換えられる著者として物語のにいるのです。私たちの著者たる力は、言葉の中に宿っています。人間が現実を明確に述べ、定義し、形作るのは言葉においてであり、それが私たちに、柔軟かつ常に新たに生み出される余地のある世界への、直通のアクセスを与えているのです。

キャシー・エリオット

ランドマークワールドワイド

ブレークスルーテクノロジーコースリーダー