ドバイ初のランドマークフォーラムが開催されるまで

ドバイ初のランドマークフォーラム(ブレークスルーテクノロジーコース)の卒業生たちが記念撮影をしているところ

2019年10月24日木曜日、ドバイで前例のないことが起きた。ランドマークフォーラム(日本名「ブレークスルーテクノロジーコース」)が初めてドバイにやってきたのだ。トランスフォメーションの週末プログラムを体験するために、驚くほど多種多様な宗教、国籍、年齢の男女が会場に集まった。これが実現した背景には、ドバイでフォーラムを開催するという可能性に立場を取り、その可能性が現実になるまで人々を可能性にいざない続けたランドマークの卒業生たちがいた。

多様性の都市ドバイ

ペルシャ湾沿いにあるドバイは、アラブ首長国連邦の中で最も人口が多く、多様性に富んだ市民文化を誇る主要都市だ。「ドバイはとても多様性に恵まれた街です。ドバイ市の人口の80%は海外からの居住者で、互いの違いを尊重する寛容な土地柄です。昔はアメリカがそのようなところだと認識されていましたね、「人種のるつぼ」として。私にとっては、今はまさにこの街が、21世紀の人種のるつぼです」

 

そう語るのは、2017年にドバイに移住した米国生まれのランドマーク卒業生、パム・ジャクソン・ムレル氏だ。パムは、ドバイでのフォーラムを実現するために発足した最初の卒業生チームのメンバーで、チームの一員としての体験や、コース会場に出現した多様性の素晴らしさについて、「ランドマークフォーラムニュース」に語ってくれた。
「ドバイのランドマークフォーラムでは、トルコ人とシリア人に並んで座ってもらいました。参加者たちは、国籍について嘘を言ったり隠したりすることなく、本物として参加することができるし、人を受け入れる寛容性を発見する機会がありました。キリスト教徒とイスラム教徒にも並んで座ってもらいました。それまで一度も異教徒の隣に座ったことがなかった人たちです。宗教の多様性、文化の多様性、国籍の多様性がすべて、会場に詰まっていました。本当に最高の経験でした」
10代後半から70代までの幅広い年齢層の人々が参加した。同様に国籍も様々だった。パムは語る。「まさにドバイ社会の国際性がよく反映されていました。ここは並外れた多様性と寛容性を併せ持つ地域で、ぜひそれを世界に体験して欲しいのです」

3名の参加者とボランティアチームのメンバーたち (ドバイ・ランドマークフォーラム 2019年

このフォーラムの開催に尽力した有志メンバーたちも国際色豊かだった。世界中から集まったランドマーク卒業生で構成されていたからだ。アメリカ、アラブ首長国連邦、イギリス、インド、エチオピア、オーストラリア、クウェート、サウジアラビア、シリア、シンガポール、スロベニア、中国、トリニダード・トバゴ、トルコ、マレーシア、パキスタンから来てくれた。この稀有の人類の縮図が、ドバイのフォーラムの中で特別な瞬間を作り出した。パムはこう語る。

 

「卒業生ゲストも勢ぞろいした3日目の夜の最後に、私たちのチームもステージに立って皆から承認されました。チームメンバーたちは、各自の出身国とフォーラムに参加した国を書いた紙を持ってステージに立ったのです。壮観でしたよ。ドバイ出身の女性はバンコクでフォーラムに参加し、クウェート出身のムスリムの男性はフィリピンで、カリブの女性はインドで参加した、という具合でした。一番平凡だったのは私で、アメリカ出身で、ワシントンDCでフォーラムに参加しました(笑)」

シム(右下)とパム(中央・胸に黒い名札)とドバイのコアチーム

 

アシム・カーン、可能性を創作する

「この話には2人の主人公がいます」とパムは言う。「先ほどお話したように、私は、2017年7月に、ここドバイに越してきて、ランドマークのロンドンセンターとの繋がりができました…そして、ロンドンセンターが紹介してくれたのが、アシム・カーンという、ドバイ在住の説明会リーダーでした」 ランドマークの卒業生であるアシムは、ロンドンでランドマークフォーラムに参加した後に、ドバイからロンドンまで通いながら訓練を受けて説明会リーダーになった。アシムは、あるときはオンラインでパキスタンの人たちのために、またあるときには対面でドバイの人たちのために説明会をリードしていた。また彼は、自分の街ドバイの可能性を明確に知っていた。

「アシムは、『ドバイでフォーラムが開催される』という可能性そのものでした。彼はそのように発言し、その言葉として生きていました。また、それ以外は眼中にないというような視野狭窄もありませんでした。妻子がいて、フルタイムの職業を持ち、クリケットをプレーし、まさに人生を謳歌しつつ、この可能性に立場を取っていましたよ」

アシムが作り出したドバイのための可能性がパムの心に響いた。パムは、しばらくするとそれが自分自身の可能性になっていることに気づいた。「私はランドマークのセンターを開設したいと思ってドバイにやって来ました。でも、それはただの願望であって、コミットメントではありませんでした。だからアシムに出会ったときには『ええ、もちろん、一緒に立場を取るわ』と答えて実際に立場を取りましたし、本気でしたけれど、それはただの立場に過ぎず、『それが私なのだ』というふうではありませんでした。少し時間がたってから、これは単なるひとつの『可能性』ではなく、現実に可能なことなのだ、と思えるようになったのです」

ドバイでランドマークフォーラムを生み出す

UAEでは既にランドマークについて人々が会話するようになっていたが、フォーラムに参加したければ、大きな覚悟が必要だった。「UAEの人は、フォーラムに参加したかったら大抵はロンドンまで飛びます。飛行機で8時間。何千マイルもの移動に、何百ドルもの旅費になるのです」 だからこそアシムとパムは、フォーラムをドバイに持ってくるための活動を続けたのだ。

 

ロンドンセンターとの会話も進化していき、アシムとパムは次から次へとドバイ在住の卒業生たちと繋がっていった。2018年には、卒業生の知り合いは15人だけだったが、翌2019年には50人以上になっていた。

ランドマーク卒業生のユセフ・ホウザイミ氏は、前日の会場設営を手伝うためクウェートから飛行機でやってきた。

「そして突然に、フォーラムに必要なものが全部揃いました。チームには、コーススーパーバイザー、シリーズディレクター、説明会リーダーが現れました。計画を立てて進めましたが、実現までの足取りは決して滑らかなものではありませんでした。私たちはさほど効果的ではありませんでした。約束をしてもそれを果たさなかったからです。守らなかった約束について毎週インテグリティを回復させました。しかし、コースの提供の仕方を学びながら、同時に参加者集めを行なっていたので、てんてこ舞いでした。ロンドンセンターが私たちを訓練してくれましが、それでもドバイにいるのは私たちだけです。コーチングもサポートも提供してもらいましたけれど、ドバイはロンドンセンターからは遠かった!」

 

フォーラムについての会話は、対面、電話、オンラインなどで常に行なわれていた。人々はドバイで開催されるランドマークフォーラムについて分かち合っていた。アシムとパムがロンドンセンターの力を借りながら、可能性の実現を進めていく中で、フォーラムの日程と会場が発表されて広がっていくと、世界中の卒業生がこれに反応を返し始めた。「卒業生が電話をしてきて、『ドバイに知人がいるから、君たちと一緒に取り組むよ』と言ってくれました」とパムは言う。このようにして、ドバイのフォーラムは現実に形を取り始めた。
「あとは成長あるのみ。チームもかなり拡大しました…私たちコアチームに、オン・メイとハー・ジンという2名の説明会リーダーと、マシュー・ヤングとヴィヴェック・シュクラという2名のコーススーパーバイザーが加わりました。フォーラムの開催日が近づいても、私たちは目標の参加者数を達成していませんでした。するとロンドンセンターが私たちのために立ち上がり、『あなたたちのフォーラムは実現する』と言ってくれたのです。そのときはたしか、参加申し込みは60名くらいでした。120名のコースにする、というゲームでやってきて、自分たちの『言葉』としては200人を目指していました。フォーラムが開催される週には、申し込んだ人は80名になりました。また、オーストラリアやロサンゼルスからプログラムのサポートに駆けつける、と約束してくれた人たちもいました。その人たちのサポートが無かったら、到底成し遂げることはできなかったでしょう」

ロンドンのリーダーシップ

「当時の私たちは自分たちを、誰か賢く心優しい助っ人が『私が助けてあげましょう』と言ってくれるのを待っている、野球のやり方も知らない寄せ集めのチームであるかのように感じていました。私たちにとっては、『私がこのイベントの源になるよ』と言ってくれたロンドンのセンターマネジャーは正にその助っ人でした」

ランドマークフォーラム最終セッションの後で。参加者たちとペール・ホムグレン氏(前列左から3番目)とブーシュ・ホムグレン氏(前列左から5番目)

 

ペール・ホルムグレン氏はランドマークのロンドンセンターのセンターマネジャーで、妻のブーシュ・ホルムグレン氏と共に、このドバイの可能性の実現を成功に導いた大きな原動力であった。ブーシュは今回のドバイのフォーラムをリードしたランドマーク・フォーラムリーダーだった。彼女はトルコでもその他の地域でもフォーラムをリードしている。パムは、このカップルについて次のように語る。

「ブーシュとペールは大変に寛大で、また固いコミットメントがあり、私たちがへたり込んでしまったときでさえ、私たちのために、そして私たちの可能性のために立場を取ってくれました。アシムとペールは、今回のフォーラム実現のための強力なパートナーでした。ペールは私たちに賭けて、会社のリソースを投入して支えてくれました。2人は、並外れた寛大さと大胆なビジョンを持っているのです。ブーシュは中東の平和に立場を取っています。それは単なるスローガンではなく、実際の、現実の、明白な体験としての平和です。そしてトルコでその可能性を実現させています。彼女はその拡大の原動力になっていて、今やトルコでは年に数回ランドマークフォーラムが開催されています。ブーシュにとって、リーダーシップを発揮して、トルコよりもさらに東南にあるドバイにこのプログラムを持っていくことは、大きなブレークスルーでもありました。それは、今回の私たちの物語の中で重要で欠かすことのできない要素でした。なぜならブーシュは、「中東は平和なり」というコミットメントを、まさに満たしているからです。

ドバイのランドマークフォーラムでボランティアチームとして関わった人々の、出身国の国旗のディスプレー

アシムもパムも、ランドマークフォーラムを一から作っていくための通常の訓練を受けた訳ではなかった。2人は、他の多くの卒業生と同じく、フォーラムの開催を可能にするための訓練を、その場その場で受けてきただけだ。つまずくこともあったし、インテグリティを失うことも多かったが、それでも彼らは進み続けた。パムは言う。「本当にまたとない体験でした。実際に在ることと一緒に居続ける、創作し続ける、パフォーマンスという世界に自らを置き続ける、そして「何かが悪い」という観点を常に手放す、などが求められました。自らの標準や目標を達成していないという事実と一緒にいること、それについて自分は何者であり、また、何者ではなかったか、ということとも本当に一緒にいることが求められました」。そして、その結果は、「非凡」の一言に尽きた。

ドバイ初のランドマークフォーラムの参加者数は通常のコースより少なかったし、開始時点では、ドバイでの次回開催のコミットメントはなかった。しかし、コースのサイズがどうであれ、このドバイのフォーラムでは信じられないようなトランスフォメーションが起きた。ファイナルセッションも大成功だったので、ペール・ホムグレンは可能性に賭けてその晩のうちにランドマークの本社に電話をした。ドバイでの次回のフォーラムの開催を任せて欲しいと要請したのだ。本社はペールの要請を承認し、2020年4月にドバイで2回目のフォーラムが開催されることになった。

「どうやってこれをやってのけたか、自分たちでも分かりません・・・もちろん分かってはいるのですが(笑)。何の同意もない中でひとつの可能性に立場を取る、ということの、まさに完璧な事例だと思います」

ロサンゼルスから駆けつけた説明会リーダーのクライド・テリー氏が「既にいつもの聞き方」の掲示板を持っているところ。

今回のインタビューの終わりに、パムにはもうひとつ、分かち合いたいことがあった。それは、ドバイのランドマークフォーラムに参加した或る夫婦が結婚生活について何を創作したか、そして、この夫婦の体験から、パムにはどんな可能性が見えたか、についてだ。

ドバイのフォーラムは木曜日から土曜日にかけて行なわれ、月曜日の夜のファイナルセッションで終わる。土曜日の晩、パムは一人の男性の参加者と会話をした。彼の妻はロンドンで行なわれる次のプログラムに参加したがっている。しかし彼自身はそのプログラムに同行できるかどうかが分からない。

「特定の家族と一緒でない限りイスラム教徒の女性は旅行をしないという宗教文化上の信念があります。そのご夫婦の場合、妻はアドバンスコースを受講したいと言い、夫は、妻に付き添ってロンドンでのアドバンスコースまで行くことのできる適切な男性が見つかるかどうか分からない、と言います。妻の決意は大変に固く、その瞬間の会話は、夫と戦争状態が始まるか、または和平への道が見つかるかの瀬戸際でした。夫が可能性の方に立場を取ってくれるか否か、それが妥協や行き詰まりとして彼には見えてしまうか否か、結婚を蝕む長引く恨みとなっていくのか否か・・・」

土曜日から月曜日の晩にかけて、この夫妻に何が起きたのかは知る由もないが、彼らが月曜日の夜に再びパムに会いに来たとき、この若い夫の考え方の土台は明確にトランスフォームしていた。「彼が言ったのは、『あなたに知って欲しいのは、私はランドマークフォーラムの区別を、妻と戦争を始めないために使っていくということです。今回のような些細な選択を巡って、今後10年を妻との争いの中で過ごすということも起こり得た、ということが私には明確です。些細で静かな恨みが積もり積って夫婦の間に溝ができ、本当は傷ついて怒っているのに、二人して円満なフリすることになったかもしれませんでした』」

 パムにとってはそのときが、今回のイベント全体が結実した瞬間でした。「私はまさに戦争の始まる瞬間というものを感じました。評価判断や批判、立場を変えたくない、妥協したくない、引き下がりたくないという思い・・・そしてこの夫妻との会話が、『中東は平和なり』がどういう形を取りうるか、ということを私に見せてくれたのです。一度にひとつずつの会話を、一度に一組ずつ人と、破壊や分断ではなく創作と力づけのために、可能性に立場を取りながら、トランスフォメーションのテクノロジーを使いながら行なっていくのです。それを分かち合う機会を頂き、感謝しています」