記事 スティーブザフロンの記事、ランドマークワールドワイドニュースレターより
ブレークスルー・リーダーシップ観念から実際の影響へ
スティーブ・ザフロン ヴァントグループCEO
誰もが、どこかで傑出したリーダーに出会ったことがあるだろう。情熱、コミットメント、勇気を兼ね備えた人、まだ一つの可能性でしかないときに或る特定の成果に立場を取り、自らに力を与えながら行動し、そのビジョンを現実にしてしまう人を。このようなリーダーの資質が自分にもあることを、私たちは心のどこかで知っている。しかし「リーダー」についての既成概念が、私たちとリーダーというものの間に隔たりを生む。リーダーたる人には何か普通と違うところがある、つまり、人とは違う生まれつき特別な才能がある、だから彼らは非凡なのだ、と考えたりする。
リーダーになる人たちはもともと特別な人間なのだと思い込むと、その人がリーダーになるために通ってきた過程を見過ごしてしまう。もっと重要なことは、この思い込みが、自らをリーダーにするアクセスを狭めてしまうことだ。自分のことを、ある一定の固定した特徴や特質を備えたこういう人である、と考えるとき、私たちはリーダーであることへの扉を自ら閉じているのだ。人から尋ねられると私たちは、自分についての固定した見方について様々に説明する。こういう自分なのはこんなチャンスや経験に恵まれたからだ、あるいはこんな機会や経験がなかったからだ、または、自分が下したあるいは下さなかった決断の故だ、または運などのせいだだ、などと。しかしそれは単に、決まったあるいは固定したあり方を説明しているだけのことで、私たちは別にそこから動けないわけではない。自分が何者であるのか、そして何者であれるのかに関して、私たちは自分で決めることができる。もしリーダーであろう、立場を取ろう、ビジョンを実現しよう、と選択するのであれば、そうするためのアクセスを人間は十分に持っているのだ。
リーダーシップが求められるのは、国際舞台や特定の危機的状況に限らない。既存の事実に基づくものでもなく、到達するための明確な道筋もないそんな未来を作り出そうとすることがリーダーシップだ。リーダーシップは、誰もが今自分が関わっていることに――例えば日々の暮らしや、家庭や、コミュニティや国にも、持ち込むことができる。リーダーはごく普通の人間なのだ。あえて自分よりも大きな可能性に自分を結びつけ、自らのビジョンやコミットメントによって新たに開ける世界に引き付けられてやまない「普通の人」なのだ。私たちが何かの未来を創作し、それに自分を投げ込むと、その未来がこれまでになかった新しい領域を開き始める。それが何の誕生を促すのか、何を引き寄せるか、何を私たちが引き起こせるのかは予想できない。
未来の創造は、言葉の中に存在することだ。それはビジョンを言葉で紡ぎ出すことから始まり、会話を通して命を獲得していく。リーダーシップの命の糧は、ある意味では、対話や、つながりや、会話のための能力である。ちょうど画家や彫刻家や詩人が人々に異なる物事の見方を指し示すのと同じく、リーダーもしくはリーダーのチームは、何が可能かについての異なる見識を指し示す。それには勇気が、つまり立場を取ることが要求されるが、これは反対勢力に対峙するという意味ではない。立場とは、ある特定のビジョンが現実のものとして結実していくための道になるというコミットメントである。生み出した未来がこのような種類の未来であれば、必ずと言ってよいほど、その実現は一人の人間の手に余る。実現のためには、他の人々による、コミットされた協調的な行動が必要だし、それに頼ることになる。協調して行動し活動することが、可能性が拡大していくための、そして私たちが一人では達成できないことを達成するための根本的な基盤である。ここで、「起きてくる(見えてくる)」という現象が重要な役割を果たす。
人の振る舞い方も、何を選択しどのような行動を取るかも、モチベーションの有無も、その人が世界をどのように見ているかと直接の相関がある。別の言葉で言えば、その人にとって世界がどのように起きてきているかと直接に相関している。キャッチボールをしているところを思い浮かべてほしい。ボールがある角度で飛んでくるのが見えたら、ボールが進んでいると思う方向に私たちは走る。ボールの角度が下がっていたら早く走る。逆に角度が上がっていれば、スピードを緩める。私たちの行動は、そのボールの描く弧や、速度や、ボールの大きさと直接相関している。別の言葉で言えば私たちの行動は、私たちの見方、つまり私たちが持っているキャッチボールのコンテクストと相関している。ある状況が私にとってどのように「起きてくる」かは、その状況そのものによって形成されているのではない。その状況に対して持っている、私たちのコンテクストによって色付けされ、形成されている。そのときのコンテクストの一つが、キャッチボールではなくボーリングであれば、ボールも、相関する私たちの行動も、野球のときとはまったく違うふうに起きるだろう。
この「起き」のダイナミズムの好例は、私たちがペルーの鉱山会社に対してコンサルティング業務を行なっていたときに発生したことだ。その会社の従業員グループの中には、トップはスペイン系の人々の子孫で、最下層はインディオという明確な階級構造が存在していた。コンテクストは「分をわきまえろ」で、これがそれぞれの役割や作業員同士の人間関係を規定していた。人々の能力も貢献も、このパラメーターが許す範囲でしか発揮されていなかった。しかもこの図式を明確に示すために、作業員たちは自分の地位を反映した色違いの帽子をかぶっていた。金色の帽子は上流階級を意味し、黄色または緑色の帽子は下層を意味する。このようなシステムが働いているところには必ず緊張関係が存在する。その会社のマネジャーは私たちとの仕事を通して、こういう日々の仕事、状況の政治力学、そして会社の未来が、従業員たちにとってどのようなものとして「起きて」いるかを見た。彼は、この現状やその様々な理由が許す範囲、つまり「当然予想されること」に縛られるつもりはなかった。それを超えた可能性を見て行動を起こす用意があった。彼には、自分たちがいま保持しているコンテクストが、社員たちの行動も、パフォーマンスも形成し、仮に物事が変わり得るとしてもそこで何が可能になるのかということさえも形成しているのだ、ということが明確に見えたのだ。
彼は、この帽子による色分けが、そのとき会社全体で創作し始めていた新しい未来のビジョンとは一貫しないと判断した。彼が意図していたことは、新しい未来の成功に対して誰もが等しく何かしら貢献をする機会を持てるようにすることだった。そこで彼は、社員全員のために白い帽子を注文した。そして従業員たちにはこう言った。「新しい帽子が届くにはあと一ヶ月はかかる。それまでは、お互いに、ただ帽子を取り替えてかぶることを提案する。そのうち、どの帽子がどういう意味だったのか、誰も知らないようになる」。みんなはお互いに帽子を取り替え、歓声が上がった。このたった一つの変更によって、新しい未来へのシフトが確定した。従業員たちには、これまでとまったく違う、この会社の中での自分たちの未来と役割を見始めた。パフォーマンスが劇的に変化した。従業員たちは自らを、この鉱山の未来のための、極めて重要で不可欠な存在と見ることができるようになった。分断された個人個人の役割から一歩踏み出し、自らをチームの一部として体験できるようになったのだ。会社のビジョンが社内のすべてのレベルで共有され、自分のものとして所有されることほど会社のパフォーマンスを強力に引き上げる力はない。社員が会社のビジョンを自分のビジョンだとして取り組み始めたとき、それは組織のまごうことなき原動力となる。
リーダーであることは勇気を要する。危機的な瞬間に要求されるような勇気だけではない。日常の中で要求される類いの勇気も要求される。リーダーなら、意図をくじかれ、自分はこの任務にふさわしくないという考えが浮かぶなど日常茶飯事だ。可能性がまだ一つの可能性でしかないときに、その未来に対して立場を取る。これは、純粋に実存的な行為であり、言葉の中だけに――私たちの発話の中にだけに――存在できることだ。
言葉のことを考えるとき人は、世界は自分の外にあって、その世界を記述すること、言及すること、世界について話すことが自分の言葉の主たる機能だと考えがちだ。しかし言葉と私たちの「自己」との関係は、それよりも遥かに深く創造的で生成的である。すべての言葉は、それ独自の意味を運んでくる。しかし、それらの意味がもともと世界の中に眠っていて、言葉によって表現されるのを待っているわけではない。言葉が世界に意味を与える。この見地に立つと、物事は一変する――つまり、私たちの発話は、私たちの言葉に世界が一致するように、世界に影響を与えるのだ。
未来の現実やそのもろもろの条件や状況は、「事実」としては存在していない。未来は、私たちそのものである「会話」の産物としてのみ存在している。つまり言葉とコミュニケーションは、人間が自らにとって本当に大切なこと、重要なこと、可能なことを実現する上で、最も重要で基本的なアクセスとなるのだ。
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