記事 大きな人として生きる——後戻りなし

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著者 ジョー・ディマジオ
医師
ランドマークワールドワイド
ブレークスルーテクノロジーコースリーダー

選択—それは「イエス」を許し、「ノー」を可能にする言葉です。自由さに自由を与え、様々なものの混合物から義務を取り去ってくれる言葉です。冒険も高揚感も、そして本物さもこの言葉によって成立します。繭(まゆ)がイモムシにささやきかけるのは、まさにこの「選択」という言葉です。*

生物学者であり医師であるルイス・トーマスは、「ヒトは社会性昆虫には似ていない」と述べています。「社会性昆虫は行動の仕方を一つしか持っていない。 (中略) ヒトは全く異なる暗号から作られている。 (中略) 単なる前進・停止だけでなく、『何だか分からないが試してみよう』というのが追加されているようだ。この調子で進めば、驚嘆に次ぐ驚嘆の体験が待っているのは間違いない。(中略) ヒトの行動には、ここまでという限界がないのだ」。

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確かに私たちの行動には、ここまでという限界がありません。人間は、いつでも、どんな状況においても、自らの人生の質をトランスフォームする力を持っています。では、それが可能なのだとしたら、なぜ私たちはそのように生きてはいないのでしょうか?

そんな生き方が現実に可能であるということを知らないから、というのが大方のところでしょう。知らないからこそ掛け金の低いカードテーブルでプレーしようとするのです。私たちの一日を、本当の違いを作っている部分と、それ以外に分類してみましょう。(大切なことしているときとそうでないとき、という分け方ではなく、本当に違いを作るような事柄と、それ以外の残りの事柄、という分け方です)。何が見えてくるでしょうか?

大切なことではなく、違いを作ったことについて考えるには、人生を数年、遡ってみる必要があるかもしれません。たとえば、十代の頃に「本当に大切」だった事柄を、今憶えているでしょうか?親から、クラブに行ってはいけないと言われたときや、門限があって夜遅くまで外出できなかったときのことを憶えていますか?それがどれだけ本当に、本当に大切だったか思い出せますか?今や大人となれば、大抵の人は当時の「大切なこと」は忘れています。そんなものです。当時は大切なことのように見えたけれど、一週間、一か月経ってみれば、何をあんなに大騒ぎしたのだろう、という具合です。

このことから、妻の連れ子の十代の娘アレックのことが頭に浮かびました。娘も妻も私も、ここでその話をシェアしたいと思います。アレックスは「若い人のためのランドマークワールドワイド・ブレークスルーテクノロジーコース」と「ティーンズのためのランドマークワールドワイド・ブレークスルーテクノロジーコース」の両方に参加しています。彼女は人生というゲームをパワフルにプレーするためには何が必要であるかを知っているし、また、大きな人であるということを創作しながら生きています——大抵の場合は。

時々アレックスは、自分はそんなに大きな人ではない、というフリをしたがります。アレックスが母親と(つまり私の妻のダイアンと)門限の約束を巡って口論をしたことがありました。その時、私もダイアンもこの問題はそれで片付いたと思っていました。十分に議論を尽くした上で合意がなされたと。翌朝、アレックスは学校に行き、帰宅時間を過ぎても帰ってきませんでした。刻々と時間は過ぎてゆき、私たち夫婦は気をもみながら娘の無事を願いました。娘が帰宅してから、3人でこれについてじっくり話し合いました。娘にとってはこの問題は、単に門限についての会話ではなかったのです。彼女の世界の中の「ものすごく大切なこと」、つまり、友人のこと、友人たちからどう見られるか、一個の独立した人間という感覚、そして、自分の人生をコントロールしているという感覚の問題だったのです。

すべてのことについて徹底的に話し合いました。最終的にアレックスは、これらすべてを何の苦しみもなく、友人からかっこ悪いと思われる心配もなく、親に腹を立てる必要もなく解消することが可能だったことを理解しました。そして、そのためには、アレックスが、今や自身でも知っている自らにふさわしい生き方をする必要がありました。ところがアレックスはその時、そちらの方向には行かないと選択していました。友人たちと同じ種類の会話に所属したがったのです。その必要もないのに、またそれでは本当に欲しいものは手に入らなくなると分かっているのに、彼女は、コミュニケーションをせず反抗的になる方を選んでいました。そして、それもすべて終わってから、私たちはトランスフォームした人として人生を生きるために必要な勇気について話し合いました。トランスフォームした人として生きるためには何が必要なのかを知る勇気、どのような状況であれ私たち一人ひとりに、トランスフォームした現実に基づいて行動し生きていくという選択があるのだ、と知る勇気について話し合ったのです。

以上は十代の若者の例です。しかし私が、大勢の大人と会話をしてきた経験から知っているのは、この問題——自分が今や自分自身として知っている自分に相応しい生き方をすること、つまり大きくないというフリができないくらい大きな人間として生きるという課題は、十代が終わればそれで無くなるというようなものではない、ということです。正にそれこそが大人の課題なのです。それが、私が伝えたいことです。

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多くの場合、人は、トランスフォームした人生を生きるために立ち上がろうとしません。ある状況では自らにこう言いきかせます。「トランスフォームした人生を生きるのは、私にとっては大切なことではない」「毎日無難に生きていければ十分だ」。心配事や様々な観点や立場でがんじがらめとなったあまりに、一瞬にして物事が解消され得るところに身を置けるという考えすら浮かんでこなくなります。「トランスフォメーションという魔法の粉をかけてあげましょうか」と誰かに言われたとして、そしてそれだけでたちどころにトランスフォームするとしても、「いいえ結構、欲しくありません」と言うでしょう。

自分がこう言っているのが聞こえていませんか?「何も変えるな、すばらしいことだったとしても私には起きて欲しくない。このままの自分でいさせてくれ」。そして、あなたは今自分が居る位置の正当性を構築するために時間を費やします——慣れ親しんだ水漏れする救命ボートを捨てて、水漏れしないボートに乗り換えるというチャンスを手に入れることすら恐ろしいのです。そういうときの私たちの言い訳は合理的で知的です。アレックスの当初の反応も然り、今居るところに留まることを正当化するために人間が使う幾千もの理由も然り、です。

トランスフォームした人生を生きるには勇気が必要です。人はよく、勇気は危機の瞬間のみに必要なものだと思いますが、それは違います。勇気は、緊急事態からの要請がないときも含めて、毎日毎瞬求められるものです。あなた自身が「これがかかっているんだ」と言ったことをかけて、あなたが「これが私だ」と知っている自分自身にふさわしい人生を創造することは、あなたの肩にかかっています。これはあなた自身が選び取る一つの立ち位置だからです。そして、その立ち位置が今度はあなたという人になっていきます。これこれがかかっているのだ、と言う行為自体が純粋に実存的な行為です。人間の自由のためのこの仕事、人間がパワフルであるためのこの仕事も実は、自分がどこに立つか、からの産物です——今取り組んでいる目先のことの産物でも、自分を測る尺度として使っている事柄の産物でもありません。私たちは自分が言ったことと一貫して生きるときにこそ、自分自身に忠実に生きているのです。

トランスフォメーションは、現状をひっくり返し、私たちを安逸という惰性から脱け出させる力をもっています。トランスフォメーションは、そう成りうるあらゆる存在の土台を与えます。「トランスフォームした人生を生きる」という選択をしたら、自らの大小様々な抵抗と闘うことを要求されるし、勝手に設定していた自分の限界を手放すという苦しみや凡庸さなどと向き合うことも要求されます。しかし、何にも増して重要なのは、自らが可能だと知っていることと一貫して生きていくことです。トランスフォメーションは、自分は何者として生きていくのかという選択と、人間という存在に入手可能な全領域という2つの智慧をもたらします。トランスフォメーションと共にもたらされるのは、あなたという人間を入れる大きな器なのです。

* トム・ロビンスから編集

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